『第81Q戦争』コードウェイナー・スミス — 愛をこころに、一、二と耐えよ


この巻では特別に巻末の解説を読んだ後に本編にとりかかることをお勧めする。この集中にはコアなスミス作品が少ないからだ。巻頭の表題作「第81Q戦争」はこどもの微笑ましい創作物であり、続く2作はスミスの死後に奥方:ジュヌヴィーヴにより完成された — したがって下手をすると「ボツ」となった習作程度のもの、である。この巻での誉れ高き驚異のスミス節は、嚆矢/アペリティフ程度ではあれ「人びとが降った日」から始まり、必殺の「酔いどれ船」で終わる。巻末解説で落ち穂は落ち穂として捉えておけば「何だよ、コードウェイナー・スミスこんなもんかよ」といったお門違いの不満感を抱くことを予め避けられるのだ。ついでに言っておけば、「大佐は無の極から帰った」は圧倒的に出来のいい同工異曲の「酔いどれ船」の後に読んだほうがいいし、浮かれたポップなジョーク短篇「ガスタブルの惑星より」はティプトリーなんかもよくやるアレ系、と気を抜いて読めばいい。



コードウェイナー・スミスことポール・M・A・ラインバーガー博士の天才が多かれ少なかれ、またつまるところ、あの悪逆な国家の有するひとつのテクノロジーとして使われたことは歴史的不幸ではあるかもしれないが、アリス・シェルドン・ヘイスティングズ博士の場合と同様、その苛烈な職歴がかれらをして不可避的にSFに向わしめたとみれば、文学はその幸運を素直に喜んでもいいだろう。少なくともSFがその職能と任務を生みだしたわけではないのだから。フレデリック・ポールによる「序文」は、ラインバーガー博士の数奇な人生と運命とその作品との連関に想いを馳せるのに役立つが、だからと言ってそれなしではスミス作品が面白くなくなる、なんてこともない。が、どっちにせよ読者はその異様に高次のマクロなヴィジョンに圧倒されるのを感じ、「こんな小説を書くなんていったいどんな人なんだろ?」とやはり読まずにはいられなくなるのだが。



「人びとが降った日」は軽い小品だが、まさしく博士の悲しみと恐怖と憤りが糧となって書かれたものだろう。その対象は単に歴史上の特定のファシズムにとどまるものではなく、人間をあたまかずとして見る全ての思想に向けられていよう。不思議とというか当然にというか、ティプトリーのいくつかの短篇には似た香りのするものがある。

「青をこころに、一、二と数えよ」は、この “SF界随一の詩人” とやらが、エリスンやウォマックに劣らず暴力の何たるかを哀しいまでに知る現代的な賢人であることを如実に示している。「積層ネズミ脳」絡みの表現をファンタジー的逃避手段と観るか早すぎたサイバーパンク的表現と観るかでスミスの評価は天地ほどに違ってくる ー ハードウェアハードSFの信奉者はレムに与するがよい。ハッピー・エンドを頑なに拒むのは一部の狭量なSFファンのスノビズムに過ぎず、また、読むべき長ぜりふはそんなところにはない。根本的なヒューマニズムはヒューマニティへの根本的な科学的理解に基づかずしては成立し得ない、というSFでは当り前の認識を、「門外漢」「新参者」たちにも軽々と力強く突きつけるであろう、ファンタスティックに見えてシヴィアでモダンな好短篇。

「酔いどれ船」がランボーの詩に立脚していようと敬遠してはならない ー これは全くの純然たるSFだからだ。「二分間戦争」のネーミングはストロスにインスピレーションを与えたものかもしれない。ヴァーリイ・ファンは八世界の倫理感覚のデジャ・ヴュをここで感じるだろう。補完機構のシヴィアにもヒューマンで正当な、正義 ー というよりジャスティス ー の感覚は、21世紀の現代にこそ希求されるべきものではあるが、そのシヴィアさに耐え得る現代人は未だ少なかろう。権力機構それ自体の中に権力の暴力性に対する監視/抑制/抵抗機能が内包されている、という人類補完機構(実際には「人類の補佐役」のニュアンス)のプログレッシヴ性がさらりと鮮やかに描かれる見逃されがちな逸品。



想えば「死婦人」を初めて読んだ時、私をスミスから遠ざけたのは、そのファンタジー臭さとそっちの面から一辺倒の惹句であったろうが、それにもまして私のキャパシティの不足であったろう。ギブスンやストルガツキーによって新たな眼を授けられて以来の慚愧ゆえの沈黙裡の約束を私はいまここに果たす(ボルヘス風のシブくドラマティックな結び)。









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