『パニックの手』ジョナサン・キャロル — 私はファンタジーがきらいだ


私はファンタズィがきらいだ。『西のはて』はノレて泣けたがその前の『ゲド』は第1作読了でもういいか、となった。『ティーターン』に始まるシリーズは怒りとともに読み捨てた。『ゴーメンガースト』も2作でもういいや。『コブナント』は苦痛ーっ。いくら惚れてても『新しい太陽』はちょっと、ねぇ?



子供のころもっとも早く読んだそれ相応のファンタシイは『不思議の国のアリス』と『ベオウルフ(児童向けの抄訳)』だ。小1・2年の担任の先生が3年の時分にわざわざ訪ねていらして置いていかれたものだ ー あまりにも見事な選択だった。それ以来私は生半可なファンタシーではうけつけないカラダになってしまったともいえる。



そんな私だが“ダーク・ファンタジー"・ブームの嚆矢となったキャロルの作品は大好きだ。キャロルとはデビュー以来のつきあいだったが、長篇を随分読んで、もうそろそろ...(仮称:キング読者症候群)と思っていたころのコレだった。ビビった。己の不明を恥じた。キャロルはまだまだイケる ー どころか、もっと短篇を、何なら短篇だけを書いて、と思った。



まさにアルバム1曲め!「フィドルヘッド氏」はキャロル短編の切れ味と守備範囲を3分ポップに詰め込むような過不足ない ー というにはあまりにも過多なデキのスタートだ。さる長篇中で既に読んでいた人だとちょっとだけ損するよな気もするが。切れ味鋭くスタイリッシュなキャロルの短篇美学を読み取れずに、たとえばこの短篇を「未完」と称して恥じないような読書子もいる由だが、あなたがそうでなければいいなと思う。

「秋物コレクション」は純然たる主流文学作品。何の超自然現象も出てこない。が!君よ、敬遠するなかれ。全てのホラー/SF/ミステリ/ファンタジー読みが単なる“短編”として泣き濡れてよい作品なのだから。驚くべき鮮やかな展開はまさにキャロル節と言うしかなく、なおかつO・ヘンリーやシリトーの短篇のようなさらりとした哀切感を持つ。

「きみを過ぎて十五分(きみを四分の一過ぎて)」は切っ先鋭いミステリ/サイコ・ホラーだ。これまたどこかで読んでるハズで、そうでない人は幸運だ。私見だが、元ザ・ポリスのスチュワート・コープランドなら確かにスーツに白スニーカーが似合いそうだ。

「ぼくのズーンデル」をどうほめる?ひきあい用にたくさんの作品がうかんでくるが、なぜかいつでも筆頭はレヴィン。よくあるナチス陰謀ものを超えて神話的な大文字の「悪」に寄せていくラヴクラフト的とも言える剛球をさらりと小洒落た現代小説のていでやってのけるところにキャロルの比類なき敏腕が感じられる。

「パニックの手」は表題作だけあってとてつもない絶品だ。何度読んでも一行一行を愛でるように読んでしまう。と同時に、トリックの手を、ここだ、これだ、とつきとめるためにもそうしてしまうのだ。ラストのさりげない1パラグラフはコルタサル以来の超絶技巧だ。紙に書き出して論理式を立てたりすべきではなく、もう一度読み返して何度も混乱を楽しもう。



おそらく私はファンタスィーを勝手に線引きして分類しているのだろう。おそらく誰もが自分なりのファンタズィの部分集合円を持っているのだろう。それにつけても私は折々、ファンタジーを悪口として使ってみずにはいられない。それは屈折した愛の反語表現なのだろうか。



 





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