『コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男』フリオ・コルタサル — ブソーン、コルターサル、ボルヘス・トリスメギストス

わたしのコルターサル発見は、熱帯夜とコンクリート・ベンチの結びつきによるものである。そのベンチは、洗足池図書館の常夜灯の下で、われわれを涼ませてくれていた。眠れぬ夏の夜には避けられぬことだが、わたしとタカシ=ナカージマはいつしかコワいハナシを披露しあっていた。整合性のあるきれいなオチ話が尽きてきたところでわれわれは、いかにも深遠な暗合を秘めているかに思えてその実何の意味もない、といったメタ怪談をアド・リブで作りはじめていた。そんななか、タカシ=ナカージマは「むらがる火は炎」というハナシを披露した。ネタ自体はどうということもなかったが、わたしがその含蓄深い記憶に値するタイトルの借用を申し出ると、エクアドルだかサルヴァドルだか、そんな名前の国の作家、もしくはそんな名前の作家から拝借したのだ、とかれは答えた ― 父親の書斎の本で拾っただけのタイトルだ、と。おりしも夜は明け、夏時間で早めに開いた図書館で、われわれは日外アソシエーツの『短編小説12万作品名目録』にあたったが、そんなタイトルはみつからなかった。タカシはいささか当惑して思いつくままにその作家の名前らしく聞こえる音の候補をならべてみた。プルターク、ウプサーラ、フルクサス、フラクタル... 辞去する前にかれは、その作家は少なくとも中米か南米の出身であったはず、といった。告白するが、わたしはそれをいささか快からず聞いた。あまりによくできたそのタイトルを自分の絵画作品に使うために渡したくないのだろうとにらんだからである。

― 中略 ―

「むらがる火は炎」こそみつからなかったが、コルターサルはわたしを魅了した。
「続いている公園」はいろいろなところでパクられているだろうし、またそれ自身も何度めかのパクりだろう。が、アルバム1曲めにふさわしいこの2ページには、コルターサルのマジックがポップにコンパクトに、しかし必要にして十分に発揮されている。
「パリにいる若い女性に宛てた手紙」では、アメリカ/ヨーロッパ型のなじみ深い現代世界が抜群のひとなつっこさでわれわれを誘い入れ、しかつめらしく語られるあの“マジック・リアリズム”のもうひとつの極を見せてくれる。ボリス・ヴィアン的/SF的なおふざけ短篇としても絶品だ。
「南部高速道路」に現代社会への批判や諷刺を読みとるのは容易だが、コルターサルの楽しさはそんなところにはない(確かにそのような独断的な断定を、コルターサルの長編とそれへの評価は有難迷惑とばかりに否定することになろうが)。ナンセンスの中にあっても拒絶し得ない物語自身の自律性テンションがわれわれの批判的見地・心情をいつのまにか丸めこみ、別のリアルを呈示していくのがコルターサルの身上だ。そのマジックは土俗性のようなものからは程遠く、現代人たるわれわれにも正座を強いることがない。
「正午の島」はわたしの常に変わらぬお気に入りで、モチーフも登場人物も切なくも美しいラストもすべてが理屈抜きに愛おしい。宗教や哲学や絶対の探求や... そんなものを全部ぬきにしてもただ小説として面白い ― コルターサルの最大の魅力がそこにあることを如実に示す好例だ。
「すべての火は火」 現代人の文体がロックにパンクに影響を受けるように、ここでのコルターサルの文章術はジャズの影響下にあると言える。複数の異なる楽器/プレイヤーが交互にフィーチャーされるように、現代と古代が交互に入れ替わりに現れ、その間隔がクライマックスに向けて狭まっていく。コンセプトとモチーフにエリスンの「世界の中心」との共通点を見出すのもまた一興だろう。

   ― 中略 ―

グーグルとの接触とその統語法はこの世界を崩壊させた。少数派の用語はクローラーやスパイダーやハムスターやラトーン(小ねずみ)に齧り削られやがては姿を消す。そのときル・グィンやヴァン・ヴォクトやただのコルターサルなどは地上から消えるにちがいない。*6 世界はブソーン(郵便箱)となるだろう。だが、わたしは気にしない。「エノラ・ゲイ」のテクノ音の反復の中、ネスカフェとゴーロワーズを燃料に、ストルガツキーの『真昼:22世紀』の深見弾ふうの試訳の校訂を続けるのだ(別に持ち込みしようという意図はないが)。


 原註*6 当然のことながら少数派による音声での発語という問題が残る。








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