『残酷な方程式』 ロバート・シェクリー — 文壇の手がまだ触れない



現代のSF読者には ― ということはギブスン以降もしくはイーガン以降のSF読者には、ということになろうが ― ロバート・シェクリーの作品を読む必要もきっかけもほとんどない。にもかかわらずここでこの短篇集をとりあげるのは、大きくふたつの点でこの集が捨ておくには惜しい作品群を収めているからだ。ひとつ、サキ、コリア、ダール風の底意地の悪い黒い笑い。ひとつ、ボルヘス、後期レムにも通じる、メタフィクションと称されてもいい(もちろん称さないほうがもっといいが)小説ならぬ小説。いずれにしてもそのキーは笑いであり、この種の笑いをもたらす良質の短篇集は現代においても相変わらず貴重なのだから、この集がいくつかのどうってことない旧シェクリー型SFを収めていても、やはり読む価値は十二分にある。



奥付のコピーライト年号を見る限り、集中の多くのただのシェクリーSFが1961年に帰すと推測される。不思議なことに「K・S」とだけ署名された巻末の「ノート」が語っているのは、どうやらその筆者が旧き良きシェクリー以外をたいして評価していないらしいということだけだ。ハヤカワ文庫SF『人間の手がまだ触れない』の巻末解説を援用して察するところ、シェクリーは’60年代の終りに結婚生活の破綻とSF界の変容ゆえか、アメリカを離れイビサに移住している。その発表の場は『プレイボーイ』『コリアーズ』等に移り、SF短篇の名手としてのキャリアを自ら封印したかに思える。失意のうちの隠遁に見えてその日々は、別種の新たな思弁に満ちた充実した日々であったろうと想像される。特異な文化的ターミナル:イビサ島にあって、様々なスリップストリームが旧き良きSF作家に打ち寄せたとしても不思議はない。



「倍のお返し」で “三つの願い” の伝統は見事なかたちで無視されている。われわれがそこで堪能するのは、現代人の生活と意見を代表するような警句と皮肉であり、軽やかでおふざけの効いた語り口である。オチ短篇の名手であったはずのシェクリーは、苦虫を噛みつぶすような生活の中でこの黒いニヤニヤ笑いのタッチを手に入れたのであろう。

「コードルが玉ネギに、玉ネギがニンジンに」もまったく同様に、われわれの密かな願望をスラップスティックに叶えてくれる。シェクリーの描く魔物たちのモダンなチャーミングさは少しは評判になっていいはずだ。

「残酷な方程式」の風景はのどかで古臭いSFのそれだが、それはいまやシェクリーにとっててっとりばやい装置でしかない。ディオゲネスよろしくシニカルな論理展開をネタとするこの短篇を、たいしたことないオチSFと看過するのはもったいないあやまちだ。

「トリップアウト」 不思議とというか当然というか、ティプトリーは時々こうしたスラップスティック・ギャグを書いてはハズす。シェクリーの筆運びはむしろラファティを想わせ、軽やかで素速く自由自在の楽しさにあふれている。

「架空の相違の識別にかんする覚え書」に “こんなの小説じゃない!”と泣きわめくのは容易だが、そういった人々は早々と小説読みを卒業するか、そもそも入門すべきでない。ボルヘス的な遊びがいかにして当時のSF作家たちに流れこんだか、その経緯を書誌学的に探るのもまた一興だろう。

「シェフとウェイターと客のパ・ド・トロワ」は、「藪の中」が代表する例の文学的テーマ群を後ろ手にひねりあげ嘲笑う、愛しくも軽やかな傑作だ。その軽みが逆説的に証明し提唱するのは「メタフィクション、名乗るに及ばず」ということだ。そのオチなきオチに怒るかニヤつくかで小説読みとしてのポテンシャルも計られよう。



ペレーヴィンからリン・ディンまで、今もわれわれは新たなこの種の笑いを提供されているが、常に忘れるべきでないのは、重要なのは出来不出来であって文学的価値ではない、ということだろう。鬼の首をとったように喧伝される文学界のムーヴメントは早々と古びていくが、マスターピースはけっして滅びない。黄金時代という幼年期をぬけだし、苦みばしった大人のタッチで人知れず奇妙な味の異色作家となったシェクリーは、マイナー・リーグのレムであり、さらにはその作がいちいち畢生の大上段ではない分、その軽みは真空よりなお軽やかだ。









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